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Down The Valley / MarcoMarche
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  • natasha
  • 2021年1月9日
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今日の彼女

  • 障害者

    「障害者」という言葉にはどうしても居心地の悪さを感じる。

    障害(つまりその人の目であるとか足であるとかが多くの人と違うということ)を持った人。ひいては「一般の」人とは異なる人々の呼称。障害のない多数派の人々は最近になって無実の人々を「害」という字で呼ぶことに後ろめたさを感じて「がい」と呼ぶようになった。いろいろごちゃごちゃ言うけど要するに「後ろめたくなって」というのが正直なところじゃないかなと思ってる。それにしてもただ「害」を平仮名にして納得しようとしているところに私はあまり誠意を感じない。

    最近、「障害」は「障害者」の持ち物ではなく彼らを取り巻く環境の方にあるのだ、と考えてみている。「障害物競走」の「障害」だ。あれを見て参加者のことを「障害者、走ります!」と実況したりしない。「参加者たち、平均台(という名の障害)をバランス取って渡りきります!」と実況するだろう。
    障害は彼らのアイデンティティではなく、彼らを取り巻く環境に存在するもの。

    (私は身体ではなく精神の方で障害者手帳が必要だったかもしれない時期がある。いろいろあって手帳はないけど「障害」があることは私の一つのアイデンティティになっている。この話はひとまず今は割愛しよう。そのうち書くかもしれない。)

    そう考えると私たちがすべきことは漢字を平仮名にすることではなく、道を塞がれて困っている人に肩を貸すことだとシンプルに捉えやすくなる。

    「そうは言ってもね」とか「福祉の現場を知らないくせに」とか言われそうだけど、基本姿勢はこれでよくない?