自分と向き合うように

私の友人は占いができるバリキャリウーマンだ。カードを読み解くと言うより「視えた」ことを確かめるためにカードを使うような占いをする。占いとバリキャリという言葉の間に落差があるように思えるかもしれないが、ズバズバと相手の状況を言い当てながらカードを読み解いて行く様はとても彼女らしい。

彼女が私を視た。(というか随分な言い方をされた笑)

「自分のことを見つめ直しなさい」というのがメインのメッセージで「中学生の思春期から抜け出せていないふわふわした状態」というのが彼女の見立てだった。

それなりの苦労と悩みを私なりに乗り越えてきた自負があるから憮然ともしたけれど、それらは乗り越えてきたのではなく「やり過ごした」だけかも知れず、私の生きることに対する「圧倒的な自信のなさ」には心当たりがあり、また彼女の言う「過去のトラウマに囚われている」「人の目を気にして生きている」という言葉にもうなずくより外なかった。

ひとはみんなもっと生きることに自信を持っていて、過去のことにも囚われず、人の目も気にせず生きているのだろうか?太宰治のような気持ちにもなる。生きていてすみません。

私は今、燃え殻と言うペンネームの作家の「それでも日々はつづくから」というエッセイ本を読んでいる。彼は圧倒的に自信なく生きていて、彼の文章のほとんどは過去の随想で占められている。少なくともそういう人もいる。そういう人に絶大なる信頼と共感を寄せる人もいる。(私)

具体的なアドバイスは「書き出して整理すること」だった。そのアドバイスは決してこういう後ろ向きなポエムを書くことでないことはもちろん理解しているが、私は今の感情を書き留めておかねばならない気がした。

「私の今」は現実離れしていて、そのことに気づきながらも、それ以外の生き方がよくわからない。

もし会社員を続けていたら?もしパートナーがいたら?もし子どもがいたら?もし社会人として一定の業績を築いていたら?もし双極性でなかったら?いろんな「もし」に私は答えを探す。そこに答えはないのかも知れないが、救いはある。

「何かを捨てる」「何かを手放す」最近人に言われ気になっているフレーズだ。躁が来るたびに私は何かを拾ってきてしまう。(あるいは病相とは関係なく、私の根本的な問題の正体かもしれない)

選択と集中、というやつ。

私には気にして生きていることが多すぎて(人の目、過去、そして他にもたぶん何か)、何も成せない。(何かを成さなくてもいいのでは?ただ食えていればそれでいいのでは?それでも日々はつづくので)

まったく建設的ではないが、建設しなくてはならないのか?という開き直りかもしれない疑問を抱いてひとまず今日を閉じる。

この記事を書いた人

natasha

大阪でWebデザイナーをしています。フリーランスです。
得意な料理は具なしパスタ。
好きな飲み物はビール。
ハマっているのは限りなくストレートに近いハイボール。
あとはワインと日本酒。
特技は体育座り。

I’m a freelance web designer in Osaka.
I’m good at making pasta without fillings.
My favorite drink is beer. Whisky, red wine, Japanese sake and so on.
I usually just sit with my knees hugged.